先週末、1/21(土)に沖永良部島で勉強会が行われましたので出席しました。内容は「砂糖政策に関する西郷書簡」。西郷隆盛は、奄美大島・徳之島・沖永良部島の三島に潜居、あるいは配流され、前後約4年半、島で暮らし、砂糖きび畑に囲まれた生活の中で、薩摩藩の砂糖政策を冷静に観察していました。沖永良部島には、幕末の1962年閏8月から約1年7か月滞在しています。
 一通の砂糖政策に関する西郷書簡をご紹介します。明治6年、土政照(土持政照)は、沖永良部島から江戸へ西郷隆盛を頼りに、砂糖の石代金納の嘆願をする為、上京し面会しました。土政照は、西郷が沖永良部島に流罪の刑で滞在した時、西郷の世話をし、西郷とは義兄弟の契りを結ぶほどの関係です。奄美諸島では、明治に時代は変わっても、薩摩藩時代と同様に、まだ砂糖を税として厳しい徴収が行われていたようです。その土政照の嘆願に対し、西郷は、砂糖政策の改善を言及した書簡を松方正義に送っています。
まずは、原文です。
「本文に付き、後来人民の苦情を洗除いたし、島役吏の民の信用を得、人民その業に安んじ、県庁の恩威並行候熟察いたし候処、今日に至り、貢糖の名義存在いたし候廉もこれなく候に付き、上納米の儀、年々の御定め直成りを以て代銀上納仰せ付けられ、砂糖の儀は勝手売買を差し免され、島元にて売り払い候共、又は御当地大坂表迄積み出し候共、人民の望みに任せられ、県下の人民と区別これなき様、公平のご処分にこれなく候ては、県庁の不体裁を極め候事に立ち去り、人民に対すべきの面皮知らず候、」

口語訳は「本文に付き、今後島民の苦情を取り除き、島役人が島民の信頼を得て、人民がその生業に安心して励み、さらに県庁の恩威も並行するよう熟考しましたところ、現在の新政になってからは貢糖の名儀が存在すべき条理は無いので、年貢米の上納については年々定めた代価で金納を仰せ付け、砂糖については自由売買を許し、島で売りさばこうと、又は鹿児島や大阪まで積み出そうと、島民の望みに任せ、県下の人民と区別なきよう、公平に取り扱わなければ、決して相すむことではないと考えます。このまま放置していては、県庁の不体裁は極みとなり、島民に対しても面目が立たないものとなります。」

西郷の役職は、陸軍大将兼参議、当時の日本の最高位の役職です。その西郷が記した「人民」という言葉には、正に現代にも通じる民主主義の思想を読み取れます。地位を振りかざすことなく、最後は、「島民に対しても面目が立たないものです」で締めくくります。西郷隆盛は、軍人ではなく、すでに自由国家の政治家としての思想・考え方を身につけていたのではないでしょうか。明治維新に武士から政治家になった偉人の中でも、あまりにも時代の先を走りすぎたのかもしれません。この手紙の後、西郷隆盛は、征韓論での意見の対立により、辞職を提出し、下野することになったのは、大きな分岐点でした。

2/1(水)22時からのNHK、歴史秘話ヒストリアは「西郷隆盛と山岡鉄舟~幕末の二巨人の友情~」という内容だそうです。是非見てみたいと思います

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